雅楽

宮廷音楽として発達した合奏形態

「雅楽(ががく)」の語源は「雅正の楽舞」で、国の文化として正統な流れを持つ音楽という意味を持っています。
雅楽という概念は古代中国や朝鮮半島の国々にもあったのですが、その内容は全く異なるものです。

なぜ雅楽というものができたかというと、当時の政治を担っていた宮廷社会や寺院の正式行事として行われる文化風習として必要があったからです。

日本における雅楽では日本古来の歌や舞を楽器を使用して披露するという方法で行われます。
ですので「雅楽」と言っても音楽だけで成り立つものではなく、それを行う舞台装置や舞を踊る人たちなど全てを含めたものと言えます。

雅楽が完成したのは10世紀の平安時代中期とされており、現在まで継承者を通じそのままの形として保存をされています。
昭和30年には国の重要無形文化遺産として指定されるに至っており、宮内庁楽部の楽師たちによって千年以上の歴史のある雅楽を忠実に再現できるよう日々研鑽しているところです。

宮内庁楽部は皇室行事が行われる際に演奏を行うことが通例となっており、雅楽だけでなく洋楽を習得して国内外の要人を迎えるときに活躍します。

雅楽を得意としていた歴史上の人物

日本の歴史における雅楽の大家として挙げられるのが源博雅(みなもとのひろまさ)です。
源博雅は平安中期に活躍した人物で、父親に醍醐天皇、母親に藤原時平の娘を持つという生まれながらに高貴な身分として教育を受けてきました。

伝説によるとこの源博雅は生まれた時に天から音楽の声が聞こえたとされており、京の東山にいた聖心上人が天から笛・笙・琴・琵琶・鼓の音に引かれて向かったところちょうど源博雅が生まれるところだったといいます。

成長した源博雅は和琴・横笛・琵琶・篳篥(ひちりき)などの楽器に通じ、神の域に達するほどの演奏ができたと言われます。
こうした逸話ができる背景には、当時の宮廷において雅楽の腕前が直接立身出世につながるものであったということがあります。

古典の作品をひもといていくと、登場人物の多くが雅楽に用いられる楽器や舞を行うシーンがしばしば登場してきます。
ある意味雅楽のたしなみがあるかどうかということが、その人物の教養の深さを示していたというふうにも言え、貴族による宮廷文化が終わり鎌倉時代以降の武家文化においても雅楽の腕前は重視されました。

しかし宮廷音楽である雅楽は貴族文化が終焉した平安時代の末期にはかなり衰退しており、政治の中心ではなく京都方面の上方文化の一つとしてほそぼそと継承されていくことになります。

再び勢いを取り戻したのは江戸時代に入ってからで、儀式楽として京都御所や江戸城紅葉山に集められた楽人によって再現をされることになりました。